昭和40年08月28日 朝の御理解



 昨日、山口の永田先生がお見えなられました。まあいろいろお話を聞かして頂きましたり、まあ、お話さして頂いたんですけれども。こういうことを言うておられましたですね、まあ、親先生のおばさんに当る方なんですよ。こうして、椛目の神愛会の会員の一人として、椛目にご縁を頂くようにならしてもらい、これは、椛目流儀でなかならければ本当のお取り次ぎも、生き生きとした助かりもないと言うことを、もう、シミジミとその、最近感じるようになりましたと。
 今までは、わずかばかりの信者の一人一人のことの上に、どうぞ、どうぞとお願いすることはもう信者の事ばっかりであったと。もう、自分の事など、自分の家族の事など願った事もなかったと。願うにしてもそれは、非常に、その、まあ薄い稀薄のものであったというわけなんですね。もう、願う事はもう、一人一人の信者、氏子の事ばかり、その事ばかりを願うておったんですけれども。
 あの、椛目流の信心がだんだん分からして頂くようになったら、今までの願いでは、おかげにならんという事がわかりましたという。皆さん、そこ辺まで聞かれて、どげん思われますか。自分の事なんかはもう、願った事がございません。もちろん、自分の家族の事なんか願った事もありません。願うにいたしましても、それはまあ、枝葉であって、もういつも明けても暮れても願うておる事は、ご縁を頂いてお参りになる信者氏子の事ばっかり願うておりましたと。
  ところが、椛目流の信心を分からして頂くようになりましたら、そんなもんではないという事に気付かしてもらい、最近では、もう、長田の家の、言わば、子供さん方が何人もおられますが、その、家族の事を一生懸命願うようになりましたと言う。まず、なんと言うても家族の助かり、言うなら家族の者も助けきらんでおいてから、人が助けるなんてとてもおこがましいと。
 そこでまず、家族の者もが助かる、もうそのことばっかり願うておりますとこう言われる。ほんとになるほど、椛目流になって行かれておるなと、こう思うんですね。これは、どういうことでしょうかね。まず自分が楽をしたいから、まず自分の言う助かりを願っておられるのではないですね。まず、私の家族のものが助かって、ね、一つのここに行き止まるというか、助かるだけの力を頂かなければ、他人が助かるはずが無いというた頃から、そういう考え方が出来てきた。ね。いわゆる自己主義ではないです。
 例えば皆さんの中に、ほんとに自分のことばっかり願う、自分の家のことばっかり、一生懸命願う。もう、人の言い分なんかぜんぜん聞こうともしない。ただ、自分の家のことばかり。と言うのがあるとするならばそれとは違うです。そりゃ長田先生の言われるのは、ね、まず自分の家庭が助からなければ、他所の家庭が助かるはずが無いと。私はこう、私の家はこう助かってきた。
 それには、こういう信心さしてもろうた、ということにならなければ、というわけなんですね。すからああ同じ椛目流と言うても、若先生の言われるのはなるほどある意味合いにおいて椛目流であり、またただ自分達が楽になりたいと言うことだけが、ただ自分のことであり、自分の家庭の事だけであるとするならばです。ね、人が助かる事の為に自分が助からねばならんというのであるから大変な違いでしょうが。ね。
 そういうような私は、信心を自分の、自分の家が助かって、おかげを頂いて、そして自分のことなんかもう、願ったことが無い、家庭のことなんかは願った事が無い、ほんとに信者の、一人一人の事だけが、願いであるとなって来ると、こりゃまた、いよいよ椛目的になるですね。これが言うなら椛目流儀なんです。そのへんをひとつ、を分からなければいけないと思うですね。
 もう自分のこと、だいたい言うたら、私はそうですもんな、そうですもんなと言うて聞かして頂いたんですけども、ほんと言うたら長田先生家族の事じゃないですよ。もう、問題はあなたですよ、と言いたかったんですけども、ようやくそこまで分かっておられるんだから、それは私は、言わなかった。そうでしょうが。問題はご主人でもなかならければ、子供さんでもない、問題は長田先生ご自身が助かられたら、ご自身が助かられる事になり、息子さんがほんとに助かられる事になるんですよね。
 だから、もう一歩分かられる、なければ、そこが分かられるようになったら、今度はです、ほんとに、自分の助かりになるだろう、家族の助かりになるだろう、いや、信者の助かりになるだろうと。もうそこからは、もう信者の事ばかり、相手のことを願うておけば、おかげになってくるということになるですね。ですから、ここんとこをひとつようくにこの意味をわからないかんと思う。
 昨日、久留米の田村さん達が夫婦、朝の御祈念に参ってまいりました。で、ここでお届けされるのに、先日から、まあ言うなら心が暗くなるような問題がございました。で、まあ、いろいろ思わせて頂く上で、そのことで、まあ、見当しようといきよりましたら、あぁ見当違いだと、こりゃ、あぁあの人が悪いのでもなかならければ、この人が悪いわけでもない。これは俺たち夫婦の問題だと。
 そういうふうになってまいりましたら、心が楽になってから心が有り難うなってきた。そしたらその電話が掛かって来たっちゅう。もう今まで断念しておった、そのお商売の事でですね、断念してしもうておったところから、もうそれがよみがえってくるような、その、おかげで電話が架かってきた。やっぱ、これはお母さんもう、おかげを頂くのはこちらの心一つばいと、次から次と、それがおかげに繋がって行きよる。
 その話をさして頂いておりました。皆さんの信心はそのどこに焦点が、ね、何を本位としてからの信心かと。一つ検討して見なきゃいけません。ね。いえ私はもうご造営のことばっかりお願いしよります。したら、段々段々苦しゅうなってきて、ちょっとおかしい。ね。ご造営のこともなるほど、大変大事である。これは特に椛目のご造営のことは、私共の願いというよりも、むしろ神様の願いであり、その神様の願いであると分かったから、私共の願いとして、それを願うていっておるのである。
 ですから、これは大変尊いことなんですけれども、その尊いことでもです、そのご造営のことだけを、明けても暮れても思うたり、願うたりしておるだけでは、私は本当じゃないと思うですね。お商売をさして頂くでもそうです。ね。例えば、んなら、焦点が、例えばほんとに、儲かるという事だけを、本位にしておる人がある。お客さんに喜んでもらうということを本位にしておる人がある。ね。
 それは、どういうようなその考え方が本当かと。やはり、お客様本位にした方が本当なんですけれども、なかなか、お客様本位にはならずに、それに想定きよると、自分本位になってしまっておる。ね。儲かれば有り難いのであり、儲かる為のお客さんである。お客さんを、もう喜んで頂くのは、もう、その次になっておる。ね。例えば、長田先生の事を言うならです、ね、信者の事を願う、で信者が助かっていく。
 それに、自分、それから自分の教会が、助かっていかないと。先日もある先生が言うておられた。もうこの頃は信者の家ばっかりにその、地鎮祭やら、その、あんなに、もう何軒も続けて行くという話をしておられた。だから、もうそれが私は一番嬉しい、有り難いちゅうて。本当だろうか、是非、こう聞いてみたくなる。そりゃ、先生ほんなっこですかち言おうごたる。ね。
 自分からの地鎮祭の方が、本当言うたら有り難いじゃないですか。煎じ詰めてみると、なかなか怪しいものなんですね。ほんとに、信者のうちにどんどん家が建って行きよる。信者の地鎮祭が出来ていきよると。自分方んとこには、思いたっとるけども、その思い立ちは一つも成就しない。ね。私は思うです、ほんとに信者のうちにどんどん家が建って行く、地鎮祭にやらして頂く先生がです。
 もう自分の事としてそれを喜べたらです。うちの事はどんどん私成就していくと思うですね。それがほんなことなら。信心っちゃそんなもんなんです。は、わたしゃ信者が、助かりすりゃええ、もう信者が助かる事が私の喜びである。もう人が助かる、ただ、それだけでも良い。と言うて、信者は助かっていきよるのにです、まあそれが、先生が、その教会が助かっていかないはずが絶対ないという事。
 要するに、先生が助かっていかない、家族が助かっていかないならばです、その、言いござるとは、すらごつということになるとですばい。そんなんで、神様と私共との中にです。ね、人が助かるなら、その助かるがさいさえすれば良いと、と言うて、人の助かりがほんとに喜べるようになった時には、自分自身が実を言うたら助かっとる時なんである。自分の家に助かりが無い、しても、それぞれが助かっていきよる事が、まあ、私の一番有り難い事だと言う事が、そりゃあ、すらごつという事。
 ですから、どうか、ひとつそこら辺の所をですね、みんな自分の事しか願わん。自分の家庭の事だけしか願わん。それが、人の助かりの事の為に繋がっておる、それがあって初めて、言わば椛目流になるんです。ね。ほんとに自分の事だけしか願わん。自分の家の事だけしか願わん。それがもう、そこまで聞いておったら、理屈は、形の上では同じことである。ね。自分の助かりがです、ね、
 他人の助かりに繋がっておらなければいけない。為に、その長田先生じゃないですけれども、まず、自分の家庭の事を願う事になり、を、焦点において置いておりますとこういわれる。まあ、それも、煎じ詰めるならば、問題は私自身が、長田先生自身が、助かる事に精進しておりますという事に、段々なって見えるだろうと思うんです。私が助かると言う事は、もう主人が助かる事なんだ。
 私が助かるという事は、信者が助かる事なんだと。ね。その思いで、自分自身が助かり、自分自身の助かりを願うならば、それは、私は、言うならば、自分本位の信心ではなくて、それはいよいよ神様本位の信心であると私は思う。そのへんが、分からないでしょうか。ね。次に今、例を持って話しました田村さんの話、どうしてこういう困った難儀な事になってきたかという事を、色々、ここで話し合いよったら、結局は人ではなかった、自分達じゃったねと、気が付かしてもろうた。
 自分の心が安らいできた、自分の心が楽になってきた。自分の心が少し有り難うなってきた。こういう難儀な中にあってから、人じゃない。自分自身達だ。俺達夫婦の事だと分からして頂くようにならして頂いたら、心が明るうなってきた。そしたら、今まで断念しておった商売の事が、よみがえって来るような電話が掛かって来た。それに繋がって、次々タイミングようおかげを頂いて行ったと、こう言うのである。ね。
 私はこの神様本位という事はね、例えば商売さして頂くならば、商売さして頂くと言うことがです。ね、お客様本位でございますと。と言う人もあるかと思うと、儲けさえすればよいと言う事が本位な人もあるということ。と言うてんなら自分の店の繁盛を願わして頂くということがですね、私なら私共の店が繁盛すると言う事は、もっと繁盛すれば繁盛するほど、お客さんに大きなサービスをしていく事が出来るから、私の店の繁盛を願うと言うのならば、これはやはりほんとのこれがお客様本位であると言うこと。
 もう、お客さんの便利さえ願うておる、言わば、さあ、借金が出来、今日、手形が落てないと言うのだったらです。そのお客様本位はちっと間違っておると言う事。ね。椛目流じゃ、どこまでもやはり、私自身の助かり、私のお店自体が助かり、しかもそれが、例えば私の店が、繁盛するだけの為ではなくてです。
 私の店が繁盛するということが、しかも潤うことであり、神様に喜んで頂く御用の出来る事であり、お客さんにもまた、十分のサービスする事が出来るんであると。神様、お客さんにも、いよいよ喜んで頂く事が出来るんであるという、そこに繋がっての商売繁盛でなかならければならないということである。私、ここをほんとにそこにそういうように、繋がっていかなければ、私いけないと思う。
 自分方はもう繁盛を願う繁盛する。繁盛する時にはもうただ欲に欲がが付いてから、人間ちゅう者は。百万貯めるともう百五十万貯めようごとなる。百五十万貯めると、二百万貯めるごとなる。と言うてもうお客さんの為段じゃない、神様の為段じゃない。もういよいよその自分が、こう通って行きさえする事だけに、打ち向かわずしておるような、言わば、いうようなその、気持ちが誰も心の中にはあるんですばい。
 またん時はです、ガツガツのところを、ほんに神様の前でも美しかった。ところが少し余裕が出来るようになったら、もうどんこん出来んもんよりか、返って汚のうなっていきよる。不思議なこっちゃ。だからどんこん出来んときに、ずうっと美しゅうなっとかにゃいけんちゅうこと可笑しいです。はぁこの人はこれだけの事ができる。この人今度十万が出来る筈の人ががまず、出来ないと思う人の半分も出来る。
 と言う人が沢山おるんです。ね。私も( 騒音で聞き取れない )根本的に、これは間違いとるからなんです。ね。とにかく自分好みに信心しておったら、そういうことになって、しかもそれがまた自分好みであっては、ね、神様の特別な働きを受けることは出来ないということ。ね。私はまず自分の助かりを願いなさいと。自分の家庭の助かりを願いなさいと。それを自分事の助かりが、自分の家の助かりがです。ね、
 神様の助かりにです。社会が潤いにです。ね。またはお客さんの、より喜こんで頂くことの為に繋がっておる所の自分の店の繁盛であり、自分の家の助かりであるということになって来るならです。ね、そこんところをいやモットーとするというか。ね。そこんところを私は好みとする所の、信心になって行かなければいけないと。ね。これはですね、ほんとにそこのところが一つ、思い込みが出来、分からなければいかんですよ。ね。自分の事だけに、うきんながすことになるんです。
 そしてちょっと第三者的な立場から、そういうような状態を思うてみてごらん。もうこげんつまらん話はないですよ。ね。私が助かることが、私の家が助かることがです。自分の周囲の人たちが助かっていくと言う事に繋がっておるもんでなからなきゃならない。そういう意味で、私は、天地書附を、もう一遍、頂いてみなければいけないと思う。『生神金光大神天地金乃神一心に願え』と『おかげは和賀心にあり』と、ね。
 自分自身の、ね、ほんとに和賀心であり、和らぎ喜ぶ心というものがです。この事を願うということがです。それはそのまま、神様の願いでもあるという事。ね。これは言うなら、まあ、神様が助かって下さり、自分が助かって行くと言う事なんです。ね。自分の和らぎ喜ぶ心のことを一心に願わずに、ね、ただ、自分の家の事、店の事の繁盛を願っても、それはほんとのものじゃないと。
 ほんとに自分自身が助からなければならん。自分自身が助かるということは、やはり、生神金光大神天地金乃神一心に願え、願えと、和賀心にあると、おかげは和賀心にあるのだと、いうその、自分の和賀心にならして頂くことを一心に願わしてもらう。ね。そういう、和らぎ喜ぶ心でです、私一家の助かりを願う。しかも、その助かりが、それだけで消えてるのではなくてです。
 社会の潤いやら、または神に助かりやらに繋がって行くというような、おかげでなかならければいけない。ね。ちょっと考えますとですね、長田先生が言われるように、今までは、ほんとに信者の助かりばかりを願いましたと。ところが、それはまあ、椛目流の信心が段々分かってくるようになったら、それは本当じゃないことが分かってきた。そこで、まず自分の家族のものが助からなければならん。
 そのことばかりを、願うようになりましたと。勿論その内容というのは、私共一家が助かった。それをちょっと手本として元手として、私共はこういう信心さしてもらい。こう願いをさして頂いた。こういうふうに助かってきたと。それを手本にして皆さんにもそれを伝えることが出来るです。そこから確かに信者が、信者の家族が助かっていく事になるだろうということに気が付かして頂いたとこう言うわけなんです。
 私共が、長田先生の、その前の祈りじゃないけれども、ね、信心がそれ以下に分かっておるかのように思うて人の事ばかりを願うておった。例えば、御造営なら、御造営のことばっかり願うておった。明けても暮れても御造営のことを願いよる。そしたら、ますます、苦しゅうなったと言う前にです。まず自分自身の信心と助かり、しかもその自分の助かりがです。神様の助かって下さることにつながり、ね、
 御造営の御用の出来る事のための、助かりに繋がっておらなければ、それは自己主義的な信心であってです。それはつまらない信心だということ。私が今日言おうとしておることが皆さん分かって頂けただろうか。ね。昨日永田先生が、言うておられます中にもです、昨日飯塚にの月次祭に行かれて、ほんでま古賀先生達、親子といろいろ話させて頂いた。ほいで、私が頂いた御夢を話させて頂いたら、くがさんがそのことは、どうでもこうでも、ゆきじに分からせてくれと言うてその、姉が節に申しました。
 ゆきじに話しましたところが、おばさん私はおかげが頂けるじゃろうかと、私も、そげん思わんじゃないけれども、私はおかげを大体、頂ききるじゃろうかと言うて、その悲観的なことを言うから、そんな悲観的なことを言いなさんなと、本気になっておかげ頂きなさいと言うて、まあ、激励して来たというて話しておられることがです。こういうようなのを頂かれたと。
 その、ご飯が出来上がってます。その中に具がです、入っております。具と言うのがタコの足がいっぱい刻んで入れてあるちゅう。ご飯に。それを私とゆきじが一生懸命、おかずをタコだけを拾って食べよるところを頂いた。そしたら、熊本のあのこれは、池尻先生がいとこになり、私のことろは姪になります。博子さんと言います。まだ、高校を卒業した、いわゆる一年しかならん位ですから、まだ十代です。
 ところがその、博子さんのところで、なんぼでも人が助かる。最近。もう、晩なんかはもう、夜中までも一生懸命、みんな集まってきた人達にお話をする。もう、椛目中その話を頂くごたるというて、みんな喜ぶ。この頃、四、五日、毎日、熊本からお参りが続いておりますが、みんな、それを言うんです。もう、感心じゃ、もう博子さんの話を聞きよると、椛目の先生の話のごたると言うてから、みんな。
 して、みんなお知らせを頂くもんですから、お参りが多いっちいう。ところが博子さんがですね。そのご飯を見てから、ああ、そげなんこっちゃいかんち言うてから、塩をバーッと、そのご飯の中に入れて、で一生懸命混ぜてから、したらもうとってもおいしかそうな寿司が出来たち言うわけなんです。いわゆる五目寿司のような寿司でしょう。ああこりゃ、美味しかろ、ほんに、私共は、タコの足ばっかり拾うちから、ほんに酢を入れたならば、ん、まあ、美味しかろうて言いよるところで目が覚めた。ね。
 椛目で、長い間、二年間も、お話を頂とりますもんですから、古賀先生のお母さんも、古賀先生も、もうその事はすぐ分かった訳なんです。皆さんは、どうでしょうか。私がいろいろその事を皆さんに言うて、ね、椛目ではほんとにそういう、椛目にご縁を頂いて、まあ有り難いと思いながらです。ほんなこつ言うなら、その足いっちょ拾いよる、拾おうとしておるような、拾いえらんのじゃなかろうかと。これは、まず、第一、私の家族のものがそうなんです。
 有り難い、このおかげの中に、浸っておりながらです。いわゆる、タコの足と言うことは、椛目の、一番魅力的なところだということ。椛目の良かところだと言うこと。その、良かところだって、自分のものにして行く、しようとする。する意欲がないのじゃないだろうかと。長田先生にしろ、古賀先生にしろ、ね。やはり、椛目に何か、そういうものがあると。だから、そういう、良い物だけを頂いて帰る、帰ろうと言うような事では、ほんなことはつまらん。
 まあ、ほんとの、ままにはならんという事。これに、酢をきかせて、酢を入れて、それをお寿司にして、そのタコの足も、ご飯も一緒に頂くところに、美味しい寿司を頂くことが出来る。美味しい寿司と言うことは、寿を司る。おかげを司るところの元は、これを全部頂かなければ、ほんこっちゃないということなんです。ね。椛目でもです、タコの足も、頂こうとしよらん人がある。かと言うて、椛目の足のタコんとこだけは、やっぱり、無理しりたくなかばってん頂きよる。ね。
 親先生が仰ることは、ここだけはばってんから、それに、それがそれが、今さら、取りにはいかんと言うような人がありゃせんだろうかと思う。それでも、妻はこのタコの足だけを頂いとるだけのことであって、腹の膨れるような、ままになるような、おかげにはならんです。ね。先生が何を言おうとしよるか分かる。神様が、先生が今、何を求めてござるか。そこに、ちった、酢を効かせな。
 その時に初めて、寿を司るようなおかげ、私は、最近思うのにですね、私が、ここでお届けさして頂いてです、そういうおかげを頂いておる人は、実に、生き生きと、現在椛目で、おかげ頂いとるですね。酢を効かせていきよる人達は。ね。そこんとこを停止しよる人がある。そんな訳にゃいかんち言うて。そして、結局が、タコの足だけ、ね、よかとこだけ、魅力的なとこだけを、ただ持って帰りよるという人がある。
 かというと今度は、もうタコの足も貰おうとはせず、ただ、椛目の雰囲気のなかにあるというだけで、これだけは、椛目の信心を自分が身に付けなければというものもない。ただ、漠然としておるというような人達もある。ね。それでは、今日私が言おうとしておるですね、神様に喜んで頂けるということはです。そのまま自分も喜べるというものにつながっておらずでは駄目。
 だからまず自分自身が喜べるおかげをまず願えと。しかも、その、それが、自分の我情我欲が、喜べるだけのものではなくてです。その自分の喜びがです。神様に喜んで頂けるような、おかげに繋がっておらなければならないという事。ただ、美しいことばかり言うて、ただ、神様に喜んでさえ頂けばと、いうのがいかにも、神様本意のようにあるけれども、神様本位というものはそういうもんじゃないと。ね。
 あいよかけよで助かるという。助かると言うこと。ね。自分が助かると言うことは、もう神様も助かる。助かりなさると言ったような、あいよかけよの働きによるところの助かり。そういうようなものが、目指して頂かなければいけないと。まあ、いろいろ、まあ申しましたですけれどもですね。どうぞ、私が、言おうとしておるところをです。皆さんがひとつ、よう分からして頂いて、ね、
 まず、皆さんの助かりが、神様の助かりにつながる、皆さんの、例えば、繁盛が、そのまま、御広前の繁盛につながり、皆さんの願いの成就がそのまま、ね。お広前、御造営の成就に繋がっていかなければ駄目です。最近は、もう、何があっても、どう言うことでも、その事が御造営に繋がっておるかと、繋がっていないならば、それはほんなもんじゃなかぞと。現在、椛目で信心さして頂きよる者は。ね。子供が出来たといやあ、子供が出来たものは、そのまま御造営の、いわば、建設費用と。ね。
 というようにです、そのもう一切がです、御造営なら御造営ということに繋がっておらなければならん。いわゆるああおかげを頂いたという、自分がおかげを頂いたと言うことが、それが御造営に繋がっておらなければ駄目だ。そこで自分の助かりがあり、神様の助かりがあるでしょうが。私共がです往々にして、これは神様が喜んで下さることじゃろうと。じゃろうげな事じゃいかん。もうこのまま間違いなしに神様が喜んで下さると確信されることに、私どもは挺身しまたは奉仕しなければならない。
 十三日会と言い、御造営の思い立ちと言い、現在の御造営の状態と言い、ね、これこそ神様の悲願でなくて何であろうかというものをです、御造営に発揮したものを頂いて、ね、この頃になればどんなに打ち、いやどんなに打ち込んでもって言うがです、ね、一切のことが、この御造営に繋がって行くようなおかげになってこなければならないということをです。ね。再確認させて頂いて、精進していかなければならないと思うですね。
   どうぞ。